LOGIN「どうした?」弥生が考え込むように黙り込んだのを見て、瑛介が静かに問いかけた。弥生は少し躊躇ったあと、自分の考えを正直に話した。話を聞き終えた瑛介は、しばらく無言のままだった。彼女が記憶を失ってからというもの、ずっと心のどこかで恐れていたことそれが、まさにこの瞬間だった。もし彼女が自分の両親のことを思い出そうとしたら。そのとき、過去の痛みや不安まで、もう一度味わうことになってしまう。彼はずっと、それだけは避けたかった。やはり父親の話を出したのがきっかけだったのかもしれない。そう思うと、瑛介は自分を少し責めた。もう少し、話すタイミングを待つべきだったのだ。「どうして黙ってるの?」沈黙が長く続くと、弥生が首を傾げて聞いた。「何か、言いにくいことでもあるの?」瑛介は我に返り、ふっと微笑むと、彼女の後頭部に手を置いて優しく撫でた。「違うよ。ただ......この話は仕事が終わってからにしようと思ってさ。ほら、もう会社の前でだいぶ長く立ってるだろ。中に入ってみよう。もしかしたら、中の景色を見たら何か思い出すかもしれない」言われてみれば、もっともだった。弥生はすぐに気持ちを切り替え、小さくうなずいた。「うん、じゃあ行ってみよう」もし中に入って何かを思い出せたら、もう誰にも聞かなくて済む。そう思いながら、彼女は足を踏み出した。受付の前を通ると、スタッフが顔を上げ、「いらっしゃいませ」と言いかけた。だが次の瞬間、弥生の姿を見た途端、言葉を失い、口をぱくぱくさせた。「......社長?」弥生は思わず瞬きをした。自分のことを言っているのか、一瞬判断できなかった。だがその女性社員は、次の瞬間、声を張り上げてオフィスの奥に向かって叫んだ。「社長が戻ってきました!」その声で、奥にいた社員たちがざわめき、次々と顔を出した。「社長?どこ?」「ほんとに戻ってきたの?」弥生が不在の間、博紀と宮崎グループの派遣スタッフが会社を支えてくれていた。おかげで会社は乱れることなく運営され、新しく入った社員たちも皆、社長は有能で美人という話を何度も聞かされていた。「美人で、頭の回転が早くて、しかも気さくな人だ」それが、博紀がいつも語る彼女の印象だった。だから誰も彼女を見たことがな
「ほんと、やっぱり本物のイケメンと本物の美人が並ぶと見惚れちゃうよね。美人が微妙な男と付き合ってるの見るたびに、正直目が痛かったけど」そんな声がエレベーターの中で飛び交っていた。弥生はみんなの言葉に頬を赤らめ、唇をきゅっと結ぶと、そっと自分の手を引こうとした。でも、瑛介の手はしっかりと彼女の手を包み込み、びくともしなかった。彼女が何度か試しても、結局抜け出せなかった。ようやく目的の階に到着し、ドアが開いた。瑛介はそのまま弥生の手を握ったまま、彼女を連れて人混みの中を抜け出した。通り過ぎるとき、さっきの女子たちがにこやかに笑いかけてきた。「お姉さん、二人ともずっと仲良くね!」弥生は思わず笑みを返し、「ありがとう」と答えた。その瞬間、エレベーターの扉が閉まり、静寂が戻った。胸の奥がほんのりと温かくなった。女の子って、やっぱり優しい。そう思いながら少し歩くと、自分の会社のフロアへと足を踏み入れた。どうしてここが自分の会社だとわかったのか。理由は単純だった。通路を進むうちに、懐かしさが波のように押し寄せてきたのだ。目の前にある内装も、ロゴのデザインも、どこか自分らしい。これは私がゼロから作り上げた会社なの?弥生はゆっくりと会社の入り口に掛けられた小さなプレートに触れた。指先でなぞりながら、その質感を確かめるように撫でた。その様子を後ろから見ていた瑛介が声をかけた。「どうした?何か思い出したのか?」その言葉をきっかけに、弥生の脳裏にふっと映像が浮かんだ。自分がこのプレートを取り付けている場面。隣には、当時の博紀の姿があった。「社長、これすごくいいですよ!」と博紀は拍手しながら言った。「今度、僕のオフィスのドアにも作ってもらえません?」その言葉に、弥生は笑って答えた。「いいよ、喜んで」意識が戻り、弥生は小さく頷いた。「少しだけ......思い出した気がする」瑛介は興味深そうに顔を傾けた。「どんなこと?記憶の手がかりになりそう?」「ううん、今のところはまだ。でも......ここに毎日通ってたら、もう少し思い出せるかもしれない」「そうか」瑛介も穏やかに頷いた。「じゃあ、しばらくは毎日通うといい。どうせ仕事もしなきゃいけないしな」彼の
だが、その考えが形になる前に、エレベーターが途中の階で止まり、また数人が乗り込んできた。人が増えると、当然中はさらにぎゅうぎゅう詰めになる。瑛介は軽く押されて前へと二歩進み、弥生もつられるようによろけた。次の瞬間、彼女は反射的に瑛介の腰に腕を回し、ぎゅっと抱き寄せた。二人の体はぴたりと密着し、呼吸すら感じる。頭の上から、低い笑い声が聞こえた。「最初からこうしてればよかったのにな」その調子に、弥生は思わず頬をふくらませ、彼の腰をつねた。「いったい......」瑛介は息を呑み、彼女のいたずらな手を捕まえながら、声を落とした。「やめろ。エレベーターの中だぞ」確かに、エレベーターの中は人でいっぱいだ。もうすぐ彼女の会社の階に着くというのに、これ以上騒がれたら恥ずかしい。しかも、さっきつねったときに、弥生も彼の体の反応をはっきり感じてしまった。彼女は目を瞬かせ、内心で小さく毒づいたそれ以上何も言わず、ただ静かに彼の腰に手を回したままじっとしていた。エレベーターが上へ上がる振動の中で、瑛介は小さくため息をついた。「......会社の場所を変えるか?」弥生の会社は他社と同じビルに入っており、エレベーターも一基しかない。出勤時にはいつもこうして混み合うのだ。弥生はぱちぱちと瞬きをして言った。「やめとくわ。もし変えられる余裕があったなら、きっと前にもう移転してるでしょ」記憶はなくても、当時の自分が資金の都合でこの場所を選んだことくらいは想像がつく。誰だって、本当はもっと広くて、専用エレベーターのあるオフィスを望むに決まっているのだ。すると瑛介は、当然のように言った。「でも今は僕がいるだろ。引っ越しなら手伝ってやるよ」一見、優しい申し出だが、弥生の耳には違って聞こえた。「どういう意味?」瑛介の目が一瞬だけ揺れ、唇の笑みがわずかに薄れた。彼は自分の不用意な言葉に気づいたらしい。けれど反応が速いのが彼の長所だった。数秒の沈黙のあと、軽く笑って言い直した。「つまり、お願いしてくれたら、新しいオフィスを用意してやるってことだよ」弥生は呆れたように小さく吐き捨てた。「調子いいことばかり言って」ちょうどそのとき、扉が開き、大勢の人が降りていった。一気に空間
「私に会社があるって言ったけど......じゃあ、最近は誰が会社のことを見てるの?」弥生の問いに、瑛介は少し笑った。「あの会社がちゃんと回ってるのは、君が雇ったマネージャーが優秀だからだよ」その優秀なマネージャー、それが博紀だった。弥生が不在のあいだ、彼は会社を支え続けていた。そして健司が人手を探していたとき、彼を推薦したのも彼自身だった。その後、博紀の給料は瑛介が直接引き上げ、今では彼の直属の部下という形になっている。名目上は弥生の会社の管理職だが、給与は宮崎グループから出ている。瑛介が博紀の経歴を確認した際、その華やかな履歴に強い印象を受けた。元々なら大企業で重役を務められる人材だ。なのに、わざわざ小さな会社に来てマネージャーをしている。その理由を尋ねると、博紀はこう答えた。「妻も子どもも両親も、この街に住んでいるんです。たしかに、もっと大きな舞台もあります。でも、それは僕の生き方には合いません。人によって大切なものは違うでしょう。僕にとって一番大切なのは家族なんです。だから、自分に合った場所で、最善を尽くせる仕事がしたい。それだけなんですよ」その言葉に心を動かされた瑛介は、彼に最上の待遇を用意した。宮崎グループが出資していることもあり、博紀はこの会社の将来を信頼していた。弥生が姿を見せなくなっても、彼は辞めようとなど思わなかった。まして、昇給のあとではなおさらだ。大企業にいた頃でも、これほどの待遇はなかった。だから彼は今、まるで自分の会社のように真剣に働いている。欲しかった安定と家族との時間を手に入れ、さらに理想の給与まで得たのだから、文句のつけようがないのだ。弥生はその話を聞いて目を見張った。「私、ずっと会社に行ってなかったのに......まだ運営してくれてるの?不安にならなかったのかな?」どこか含みのある笑みを浮かべた。「きっと君にはポテンシャルがあるって思ってるんだろう」「私が?」「ああ。彼は大企業出身の管理職だ。人を見る目は確かだよ」弥生は何とも言えない気恥ずかしさに視線をそらした。褒められ慣れていないのだ。車が会社に到着し、二人は並んでエレベーターへ向かった。ずっと瑛介が先導してくれていたが、エレベーターの中は人でいっぱいだった。
以前もこの学校に通っていたからか、弥生は記憶を失っていてもどこか懐かしさを覚えていた。子どもたちを校舎へ送り届けたとき、彼女の脳裏に、いくつかの出来事がふっとよぎった。あまりにも一瞬のことで、彼女は掴む間もなくそれらを見失ってしまった。足を止めた弥生に合わせて、隣にいた瑛介も立ち止まった。「どうした?」瑛介がそっと腰に手を添えた。彼の視線はすべて弥生に注がれていた。弥生は小さく首を横に振った。「なんでもないわ」そう言いながらも、瑛介はまだ心配そうに彼女を見つめていた。「行こう。僕は中を見てくる」次の瞬間、弥生はその手をそっと押しのけ、校内へと歩いていった。どうやら彼女の記憶は、特定の場所に来ると反応を示すらしい。今の生活が幸せで、記憶を取り戻すことに執着はなかったが、あのSNSの投稿を見てから、弥生の中に小さな疑問が芽生えた。「真実を知らないまま生きるより、たとえつらくても知っておきたい」そんな思いが、彼女を静かに突き動かしていた。瑛介は彼女の後ろ姿を見つめながら、何かを思案するように目を細めた。弥生が校内に入ると、視線はずっと二人の子どもに向けられていた。ひなのと陽平の動きに合わせて、頭の中では断片的な映像が次々と浮かんでは消えていく。だがどれも一瞬で、ほとんど掴めない。結局、何も思い出せなかった。弥生は小さく息を吐き、肩を落とした。まあ、焦らずいこう。今日がその第一歩なのだ。少し思い出せたのなら、むしろすごいこと。これから毎日ここへ来れば、きっと少しずつ取り戻せるかもしれない。帰りの車の中で、弥生は瑛介に提案した。「これから毎日、子どもたちの送り迎えは私がやるわ」その言葉に、瑛介は表情を変えずに答えた。「母さんの仕事を取るつもり?」弥生は目を瞬かせた。「でも、お母さんにも他にやることがあるんじゃない?」瑛介の唇がわずかに上がった。「結婚してからずっと、母さんの一番の願いは孫の世話なんだよ」弥生は苦笑を浮かべた。たしかに、義母はひなのと陽平を溺愛している。それは曾祖母たちも同じで、朝、弥生と瑛介が子どもたちを連れて出かけるとき、宮崎家の人々は名残惜しそうに見送ってくれた。特に義母の表情には「行かないで」と言いたげな気配
弥生はすぐには返信をしなかった。由奈も焦らず、彼女のところとは時差があることを思い出し、時間ができたときに返してくれればいいとスマホを置いた。帰りの旅は順調だった。弥生と瑛介が自宅に着いたのは、すでに夜になってからだった。ほんの数日離れていただけなのに、弥生はもうひなのと陽平が恋しくてたまらなかった。車を降りるなり、すぐに会いに行こうとしたが、使用人から「もう寝ています」と告げられた。起こしてしまってはかわいそうだと、弥生はしぶしぶ足を止めた。「あと三十分早ければ、まだ起きてたのにね」と瑛介の母が言った。弥生は苦笑しながら言った。「仕方ありません。これでもできるだけ急いで帰ってきたんです」「二人とも疲れてるでしょう。もうお風呂入って休みなさい。明日になれば、あの子たち、きっと大喜びよ」「はい」そう言って弥生は先に二階へ上がり、着替えを取りに行った。瑛介も後を追おうとしたが、母に呼び止められた。「ちょっと。今回、二人でどこ行ってたの?」瑛介はじろりと母を見た。「そんなに気になる?」母は当然のようにうなずいた。「気にならなかったら聞かないでしょ?」「なら、弥生に聞けばいいだろ」「何言ってんの、あんたに聞く方が早いでしょ。それに弥生ちゃんは長旅で疲れてるのよ」「へぇ、彼女は休ませなきゃいけなくて、僕はいいわけ?」「男は大丈夫でしょう」母親のえこひいきぶりに瑛介はあきれたが、口には出さなかった。むしろ少し嬉しかった。家族が弥生を好いてくれているそれが何よりありがたかった。「じゃあ僕も休むよ。おやすみ」そう言って階段を上がっていく瑛介の背を見て、母はため息をついた。まったく、息子ってやつは大きくなると本当に母親の手を離れるものだ。でもま、いいか。今では息子だけじゃない、孫も二人いるんだし。思い返すと、心の底から嬉しさがこみ上げてきた。妊娠がわかったときはひとりだけだと思っていたのに、まさか双子だなんて。弥生と瑛介が離婚した時は、もう孫の顔は見られないかと諦めていた。あの頑固な息子が誰かを好きになるなんてもうないと思っていたのだ。あの時、自分ももう一人くらい産んでおけばよかったと後悔した。だから、この双子はまさに思いがけない幸運だ。







